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[空想の裏庭・中庭の思索]フォトアルバム

  • 『この世界の片隅に』クウラドファンディング
    「空想の裏庭・中庭の思索」ブログで使用している写真のアルバムです。

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  • 塩野七生ルネサンス著作集5 海の都の物語(上)
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Books(茶の本)

■空想の裏庭・中庭の思索とは…

猫アイコンアニメーション、地域コンテンツについて考えていることと、TV・映画・本・美術・漫画・アニメなどの感想、日々の空想や思索の雑記を綴ります。
プロフィール
★『この世界の片隅に』映画化応援⇒このセカ応援団 私設ぷちぼーたる
●茶飲みの周縁「お茶する場面」について⇒喫茶という風景
●日々飲んだお茶の印象メモ⇒今日飲んだお茶
●毎日は書かない日記 兼 文章下書き用ノート⇒めもろーぐ~忘備録と独り言
さとHome ~開設・運営しているブログやウェブサイトのインデックス

2019年3月17日 (日)

現実と物語の越境もしくは交差

現実と物語の越境もしくは交差ということを考え続けている。

物語が作られるとき現実がそれを補強していき、作られた物語が現実に在る人や街・地域を語り直し保持する力となっていく。
ここ数年ほど特に強く考えるようになって、答えを求めて学びも始めた。その答えは一つだけではないかもしれないが。

2019年2月10日 (日)

歌は世につれ世は歌につれ

「芸術史講義(ヨーロッパ)2」という科目があって、ルネサンス以降の芸術史を学ぶのだが、それを履修していて思ったこと。

芸術をはじめとした文化というものは社会状況、歴史というか宗教や政治や経済や生活もろもろと表裏一体だと改めて思う。そこから自由であろうともするし、また社会へ戻りもする。
当たり前な話なんだけど、つい別々に考えてしまいがち。意識しなければ。

2018年11月12日 (月)

学割万歳!

AdobeCC学生・教員向けコンプリートプランを購入しました。
もともと一般向け単体プランIllustratorのみ2,180円(税別)で契約していたのですが、学生・教職員向けはコンプリートプラン(全てのアプリが使える)初年度1,980円※なので、1アプリ分より安いじゃん。オトク感が最高でーす!
※2年目からは2,980円らしいです。

一般向けから学生・教職員向けには単純に契約変更できないため、Adobeのチャット相談窓口で通信制大学に入学した旨を告げて手続きをとってもらい、解約日の後に新規購入という段取り。
(自分で解約手続きすると、年間契約開始月日によっては途中解約金のようなものを取られる場合もあるとのこと)
解約日時が北米時間表示だったので、1日前に「まだ解約にならんけど、どうしたものか」と悩みましたが(笑)

AmazonプライムもAmazonプライム Studentに変更しました。
一般向け年会費3,900円が、Studentでは1,900円です。

学割万歳! 有り難いことです。

2018年10月25日 (木)

自分が当たり前と思っていることは本当に当たり前なのか?

という問いがレポートを書く中で立ち上がります。

大学入学してすぐ取り組むべき科目に「芸術教養入門」「ことばと表現」というものがあって。

「芸術教養入門」のレポートは、大学入学の目的と芸術教養学科で学びたいことを問われます。
「ことばと表現」のレポートは、「住んでいる地域の自慢できること」と「好きな言葉」「嫌いな言葉」を問われます。

つまり、自分自身が日々の暮らしの中で何を感じてきたかを改めて考えさせられます。
自分が住んでいる地域で、自分自身が当たり前と思ってきたことが本当にそうなのか、当たり前とは何かを考えざるを得なくなります。

頭を鍛えられるなぁ。

2018年10月 5日 (金)

今日からオレは女子大生(笑)

ここ数年思うところあって画策していた通信制芸術大学への入学が許可されました。
入学試験もないので書類を揃えて提出すれば受理されるのだけれど、だからこそこれからが大変だ。

ってゆー訳で、今日からオレは女子大生なのでヨロシクね☆(笑)

2018年9月30日 (日)

私のなかの「この世界の片隅に」戦記とでもいうもの

好きな人だけ分かればいいという言い方はあれだが、下手に汎用に媚びる必要はない。だけれども、この作品は広く広く知られるべきで、どう知らせるかが大切と、ここ6年ばかり思ってる。
ああ、ジレンマ。私やその周辺が好きで理解すればいいという所にとどまれたらどんなに幸せだろうと今も思うのだが。

つまりは、2016年は画期なのだ。
自分の好きなように生きていられる当たり前のオタクで居られた時代はその年で終わった。それでも、それ以前の幸せの時代を今でも懐かしく思う。それでも、それ以前の私と根本は変わることなく生きていこうと今も思っている。

捨てられないものは捨てられない。自分自身が好きなものは好きとして、自分の拘るところは拘って、基本はそこに立脚点を置きながら、そのうえで自分に縛られないように伝えていきたい。ただ伝えるではなく伝わるようにしていくことで、結局は自分の好きなもの、楽しみを享受することになるのだから。

要は、自分の好きなもの、観たいものは何かが分かってないと行動の筋が通らない。だからと言って、それは一定ではない。変わらない何かもあるけれど、変わっていくものもある。常に自問自答だな。


▽真木太郎プロデューサーが振り返る、もうひとつの「この世界の片隅に」戦記。 【アニメ業界ウォッチング第49回】 - アキバ総研 #この世界の片隅に #いくつもの片隅に https://akiba-souken.com/article/36204/

2018年6月11日 (月)

ものをつくる過程をみる、しるということ

それは、気づくこと、考えることにつながる。
日々の暮らしの中で、気づき、考えることは生きる力につながる。
多くの人が気づき、考えると、その周りが少しずつ変わっていくのだと思う。

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2018年夏コミ向けの原稿または広島アニメーションだより原稿へのアイディア追加。
ないしは、今後なんらかの学びの中での論文目標的な…。
【更新履歴】
●2018/6/11 書き始め。

2018年6月10日 (日)

テレビ視聴体験について思うことなど(一人ブレスト)

Facebookで知人のT先生(社会学大学教授)が、1年生対象科目「メディア文化概論」はテレビの普及と視聴形態の変遷がテーマという書き込みをされていた。

対象学生にテレビ視聴状況を書いてもらったら、一人暮らしの学生の場合はテレビ視聴時間はかなり短いのだが、自宅から通う学生の場合は2時間〜4時間ぐらい観ている、家族がリビングでテレビを観てるので何となく一緒に・・・との回答が多かったとのこと。
テレビ視聴形態が集団(家族)視聴に回帰しているのか?との仮説提案だったのだが。

それで、思ったことを一人ブレスト的に書き連ねてみる。
まとめる気はないので、論が破綻するかもしれないことはご容赦。

昭和50年代前半(1970年代)までは、テレビ視聴形態は、「時」(放映時間)と「場」(テレビが設置されているお茶の間など)を共有するしかなかった。だから、テレビ番組はその番組(コンテンツ)そのものだけではなく、時や場を合わせての共有体験として記憶される。
昭和50年代後半(1980年代)になって、ビデオデッキが一般に普及し、テレビ受像機1人1台化が進んで、テレビ番組はコンテンツそのものを観る時代になっていったのかもしれない。

コンテンツそのものを観るという観点では、1980年代からOVA(オリジナルビデオアニメ)が出現したのは、放送で広く共通的に観ることが難しい作品が花開いたのは意味があるように思う。

現在、もし若い人たちの一部がテレビの集団視聴に回帰しているのかもしれないと考える時に、それは動画視聴体験がテレビ視聴に持ち込まれているのではないか?とも思う。
動画視聴は、特にSNSとの連携で、コメントしたり、共有したりすることを伴う。その際に「時」を共有することが体験的に意味を持つことがある。同時に見て、コメントをつけたり、コメントしないまでもそれを見ている時間を楽しむ。
映像を観て楽しむ行為に「共有」がつきものだという感覚があるのかも。
一般にしられた象徴的な例が「バルス」かなと思うが。(もう古い?)

単なる回帰ではなく、意味を少し変えた新しい体験共有という回帰というべきか。

もうひとつ気になるのは、CMの存在。
ビデオデッキが普及してCMカットという行動が出てきて、テレビCMが持つ経済的な意味も無くなっていったようにも思うのだが、新しい体験共有に回帰した場合にそれはどうなるんだろう?

映画も、ここ数年、劇場(映画館)回帰が進んでいるように思っている。
それは、劇場で観るべき優れた作品が多く現れたこともあるし、劇場自身の努力もある。
映像・音響の優れた設備を備えたスクリーン、それが難しい老舗映画館であれば、その独自の雰囲気を楽しむことを見つけるオーディエンスが増えてきた。
映画は新しい局面を迎えつつあるように感じている。


ここからは余談。
私たちの世代は、家族と共に観られない、あるいは家族に観ることを許して貰えない番組を何とか観ることに、ひとつの文化を作っていく意識があったかもしれない。(とかいうと偉そうだが、深夜なエロ番組とか、アニメとかね)
そういう意識は既に過去のものになって、今は、個人個人の秘めた想いはどこに行ったのだろうか?

2018年2月17日 (土)

「もう大丈夫」と「まだまだだ」を繰り返して(仮)

支援を続けて、ずっと思っていたのは、「もう大丈夫」と「まだまだだ」を繰り返してきたということ。

思えば、人もこれを繰り返しては一生を生き、生物もこれを繰り返しながら生命を紡いできたんじゃなかろうか。「もう大丈夫」と思えるあたたかな暮らしやすい場所に落ち着くのも必要で、でも、「まだまだだ」と気づいては次の場所へ世代へと飛び立って行く。
一生のことになりそうだ。

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2018年夏コミ向けの原稿ブレスト用の記事です。
〆切に向けて更新を続ける予定。

【更新履歴】
●2018/2/17 書き始め。題名発案。いまのところまだ(仮)。文章3行。

2016年8月28日 (日)

地域環境というメディア

この夏、アニメーションフェスティバルとメディア芸術祭広島展と『この世界の片隅に』関連を一通り走り抜けての、感想というか、思索というか。

メディアには、紙であったり、フィルムや電子記録媒体であったり、いろいろあるのだけれど、上映・展示される場所というか環境というか、そういったものも拡張的にメディアと呼んでいいのではないか、などと思ったり。

もう少し整理していくための覚書。

2016年3月18日 (金)

地域と創作・芸能の関係性

依存しすぎない、棄損しない、搾取しあわない。(酷い言い方だが)
お互いに相手を尊重しつつ、それぞれの生きる場所をしっかりと見つめていく。

そうやって、ここで生きていく大切さを思う、3月18日。
1年前と、71年前とに想いを馳せつつ。

2016年2月 4日 (木)

書籍購入予定備忘(2016/02/04)

『この世界の片隅に』アニメーション映画公開年になったので、書籍リンクを整理しておきます。
Kindle本の続き買わなきゃなので。上下巻になった新装版も買おうかなぁ。

良かったら、以下のリンクからご購入ください(^_^)

■この世界の片隅に 前編 (ACTION COMICS)
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この世界の片隅に(前編) (アクションコミックス)

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■この世界の片隅に 後編 (ACTION COMICS)
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この世界の片隅に(後編) (アクションコミックス)

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■電子書籍 この世界の片隅に(上)
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この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス)


■honto電子書籍 この世界の片隅に(中)
▷honto

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この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス)


■honto電子書籍 この世界の片隅に(下)
▷honto

▷Amazon Kindle

この世界の片隅に : 下 (アクションコミックス)


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